こんにちは、椎木です。
新しい時代になるとともに、お札の肖像も変わるのだとか。
今回はそんな新一万円札の肖像に抜擢された渋沢栄一について
- プロフィール
- 経歴
- なぜ選ばれたのか
を知らべてみました。
渋沢栄一のプロフィール
新しい一万円札になる渋沢栄一はこんな人。
wikiより
渋沢 栄一(しぶさわ えいいち、天保11年2月13日(1840年3月16日) – 昭和6年(1931年)11月11日)は、江戸時代末期(幕末)から大正初期にかけての日本の武士、官僚、実業家。第一国立銀行や東京証券取引所などといった多種多様な企業の設立・経営に関わり、「日本資本主義の父」ともいわれる。
正二位勲一等子爵。雅号は青淵(せいえん)。
元武士でありながら、商業面の才能に秀でていた方のようです。
かなり早い頃から株式会社制度の導入の実験をしていたのだとか。「日本資本主義の父」と呼ばれるだけの多くの功績を残された人ですね。
渋沢栄一の経歴
そんな商才に秀でた渋沢栄一の経歴はこんな感じです。
幼少の頃から、家業の畑作、藍玉の製造・販売、養蚕を手伝う一方、父に学問 の手解きを受け、従兄弟の尾高惇忠から本格的に「論語」などを学びます。
「尊王攘夷」思想の影響を受けた栄一や従兄たちは、高崎城乗っ取りの計画を立てましたが中止し、京都へ向かいます。
郷里を離れた栄一は一橋慶喜(後の徳川慶喜ですね)に仕えることになり、一橋家の家政の改善などにその実力を発揮します。
27歳の時、15代将軍となった徳川慶喜の実弟で後の水戸藩主、徳川昭武のパリ万国博覧会視察へと随行します。徳川慶喜もそんな重要な役目を与えるあたり、渋沢栄一の商才に対して大きな信頼を持っていたのでしょう。
パリ滞在中に、幕府が倒れ、明治となり欧州から帰国した渋沢栄一は、「商法会所」を静岡に設立します。その後明治政府に招かれ大蔵省の一員として新しい国づくりに深く関わります。
1873(明治6)年に大蔵省を辞した後、「第一国立銀行」の総監役(後に頭取)となります。 ここから一民間経済人としての活動がはじまりました。
渋沢栄一は第一国立銀行を拠点に、株式会社組織による企業の創設 ・育成に力を入れ、また、「道徳経済合一説」を説き続け、生涯に約500もの企業に関わったといわれています。
渋沢栄一は、約600の教育機関 ・社会公共事業の支援並びに民間外交に尽力し、多くの人々に惜しまれながら、91歳でその生涯に幕を閉じました。1931(昭和6)年11月11日の事でした。
渋沢栄一が選ばれた理由はなぜ
今回渋沢栄一が一万円札の新しい顔に選ばれたわけですが、その理由はなぜでしょうか。
やはり、「日本資本主義の父」と呼ばれるだけの功績を買われての事でしょうか。
私は「道徳経済合一説」という理念が一番大きいのではないかと思っています。
「道徳経済合一説」と言うのは、渋沢栄一を語るうえで必ず出てくるもので、その内容は、
企業の目的が利潤の追求にあるとしても、その根底には道徳が必要であり、国ないしは人類全体の繁栄に対して責任を持たなければならないという意味になります。
そんな説を現すようなこんな名言があります。
「お金というものは、自分だけのものではない」
「資本主義」だからと言って、おのれの利益ばかり追求せず、日本社会全体に寄与するような、そんな考えをもって「令和」の新時代の経済が発展する事をのぞんでの事ではないでしょうか。
まとめ
今回は渋沢栄一についてプロフィールや経歴をまとめてみました。
数々の功績を持ちつつも、おごらず、最期まで社会の為に貢献された偉大な方です。
お札に選ばれた理由としては、そんな精神をこれからの時代に根付かせようという魂胆があるのではないでしょうか。
とにかく、「令和」がいい時代になれるよう、天国から見守っていて欲しいですね。
それでは今日はこの辺で。
最後までお読みいただきありがとうございます。
ではまた次のニュースで。